バリトン 野本 稔
大島淳司前代表が逝かれて、J.Sに空いたポッカリ感は否めませんが、これは大島さんのお人柄・魅力によるものと思います。(以下、敬意をこめて「さん」とよばせていただきます。)
大島さんは、平素からご自分のことは一切口に出されない方と聞いていましたが、南区の「桧原桜」の命乞いに関わられた、花守りの一人であることは、殆ど知られていないようです。
昭和 59 年春、桧原の桜並木は道路拡幅の為、伐採寸前でした。蕾をいっぱいつけたままで、伐られる桜並木が哀れで、近くに住まいの土居善胤さんが、桜樹に命乞いの色紙を下げられた。これがハプニングの発端でした。
“花守り 進藤福岡市長殿 花哀れ せめてはあと二旬 ついの開花を ゆるし給え”
その色紙を、早朝のジョギングで発見されたのが、当時の九州電力社長の川合辰雄さんでした。川合さんは出社後、信頼されていた広報担当の大島さんに「桜の支援に智恵をかしてくれ。だが私の名は絶対出すな」と頼まれたと言います。
大島さんは早速桧原の現場へかけつけ、共感。これは、男気の「あの記者」にと。西日本新聞の松永年生記者に電話をされた。「桧原に面白いことがあるばい。来てみんね。」「忙しいのに、桧原くんだりまで行かれん」、「来てみる価値あるよ」珍妙な電話問答でした。
そうして 「花哀れ 最後の開花許したまえ~短歌に託して命乞い」~、<通じた住民の風流、市、並木の伐採延期>と大見出しの記事が社会面八段に躍ったのです。それを、進藤福岡市長がご覧になり、「今伐るのは、無風流ばい」と一言。桜樹には、
“桜花惜しむ 大和心のうるわしや 永遠に匂わん 花の心は 香瑞麻”
の返歌がかけられていました。こうして道路は桜を生かす計画に変更され、今は「桧原桜公園」として、市民に親しまれています。その後土居さんはこの経緯を文芸春秋巻頭随筆に載せられた(12 年後の平成 8 年 5 月号)が、大島さんは黙して語らず。この時まで桧原桜のことは一切話されてなかった由であります。土居さんは、元福岡シティ銀行の広報担当を永年されて居り、大島さんとは旧知の仲にも拘らず、お互い知らない侭 12 年間過ごしていたと云います。土居さんは、川合・大島の両花守りが居られなければ、今の桧原桜はない、といつも口にされています。
最後に、今は亡き作曲家團伊玖磨さんの随筆「パイプのけむり」に「桧原桜」をとり上げ述べられた言葉をお伝えして終りたいと思います。
「この話は小さな話かもしれない。然しこの小さな話の中に大きな今の日本の社会で忘れられがちな、暖かく人間が人間を信じる叡智に満ちたコミュニケーションの見事な開花を見る気持がする」
土居さんは、これは大島さんへの献辞でもあるでしょうと。 在りし日のお姿を偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げます。